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テノール|大西貴浩  熊野本宮大社
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熊野本宮大社

KUMANO HONGU TAISHA

和歌山県田辺市本宮町本宮1100

テノール|大西貴浩 ジャーナル 神社を巡る熊野本宮大社

いま思うと、わたしは30年前より熊野に導かれていたような気がする。

30年前の小学1年生のとき、「風船のたび」というダンスの終わりに風船を飛ばした。その風船には「おへんじください。おおにしたかひろ 香川県立仲南東小学校」と書いた手紙をつけた。小学1年だったわたしは、返事が来るなどとはおそらく思ってもいなかったであろう。ところが、ある日、小学校に手紙が届いたのだ。なんとそれは、わたしの飛ばした風船を拾った人からだった。

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君が飛ばした風船は私達の町の木の枝にひっかかりました。…熊野の山奥ですけど一度遊びに来てくださいね。よろしく さようなら
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その手紙にはこう書かれていた。わたしは、この手紙をもらってからというもの「熊野」という地名を忘れたことはなく、いつか熊野に行くんだ、子ども心にそう思っていた。だが、熊野を訪ねる機会もなく30年が経ち、わたしは37歳になっていた。熊野を訪れるチャンスがやってきたのは、父の退職祝いに家族で旅行に行こうと話していたときだった。“熊野に行こう、あの人を訪ねよう” ふと頭をよぎった。そこからは早かった。インターネットで差出人の名前を検索し、ある新聞のオンラインの記事からその人の名前を探し当てた。さっそく新聞社に連絡し、その人に連絡をとってもらった。こちらから連絡をすると、初めは覚えていないような様子だったが、ああ、そう言えばそんなことがあった気がするなぁとその人の記憶もよみがえってきたようだった。

返事の差出人に会ったのは、それから1ヶ月後だった。東京でのわたしのコンサートにその人が駆けつけてくれたのだ。30年越しに会ったその人に、旧知の間柄のような、そんな不思議な印象を覚えた。こんな偶然があるのだろうか、その方が手紙を送ってくださったのも、初対面時のわたしと同じ37歳のときだったということもわかった。わたしたちは空白の30年の話をお互いに話し合った。そして、「神社が好きなんです。神社で歌を奉納するのが夢なんです」と話したことを覚えていてくれ、ご縁をつないでくださり熊野本宮大社での奉納演奏が実現した。わたしの奉納演奏はこれを機に始まったのである。

そんなことから、熊野本宮大社はいちばん思い入れの深い神社だ。30年かけて辿り着いた熊野に、わたしは故郷のような懐かしさを感じずにはいられない。そして、この奇跡のような神様の粋な計らいに感謝をせずにはいられない。熊野本宮大社での奉納演奏は、これからのわたしのライフワークのひとつとなるだろう。

余談だが、このエピソードから生まれたのがオリジナル曲「黄色い風船」である。

奉納演奏 2014年12月9日(1)/2015年9月18日(2)/2016年4月14日(3)

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